昭和52年03月03日 朝の御理解
御理解 第25節
「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」
まず一心と定めてかからなければならん。どういうふうに定めるかと。天地の心を心とすると言うほどの信心だったら、大きな信心ですよね。天地の心を心とする信心。まあそう言う所に焦点を置く。一心と定めると言う所は、そこの所に一心を定めると。天地の心を心とするという、まあ大きいといやあ是が一番大きな信心だろうと思う。そこで私共の心の状態を思うてみると、皆が大きなおかげは頂きたいと思う。
所が実は実に小さい心が細い。四神様の御教えではないですけれども、ね、「竹の筒に水が溜まったような信心だから、ぼうふらぐらいな物しかわかん」と。「大海のような信心をせよと。大海には鯨が住もうが」と。そこで鯨の住むほどの大きなおかげ。又は信心。そこでそんなら浅い所には小さい雑魚ぐらいしか住みません。やっぱり大海のような深い、どこまで深いか分からんと言う様な深い心を目指さなきゃならない。勿論大海のような、言うなら広い心を目指さなければならない。
自分の心を見てみると、本当に細い小さい事が苦になる。小さい事が心配になる。ちょっとした事で腹が立つ。ね。これで例えば天下国家の事を祈ると言うた所で、聞いて下さるはずがない。ね。そういう心でなら天地の心を心とすると言った所で(笑い)それは空論に終ってしまう。ね。ですから目指す所は天地の心。そこで天地の心が分からしてもらう。天地の心を体得さして貰うと言う事になってくる。
中々一編に大きくなると言う事は出来ませんけれども、段々神様を信じて疑わない心が開けてまいります所から、小さい事にくよくよせんですみ、又は腹が立ったりもせんおかげを頂いて、そこで天地の心を心とする修行、と。昨日は大阪地区ですか、中近畿の地区の青年教師の方達が5名で、昨日6時ごろみえるって言いよったのに、もう昼頃見えられました。でまあ本当に神様のご都合、お繰り合わせというものは有り難いと思うんですけれども、今日は私はもう親教会のご大祭ですからおりません。
昨日でしかたから、午後からちょっと5時ごろまで、お話をさしてもろうたり、又はまあさしてもろうたりしたわけですけれども。色々お話をさせて頂いておる間に、気付かせて頂いた事なんですけれども、先生方と今度合楽にみえられたのは、それこそ飛ぶ鳥を落とすような勢いで、御ひれいが輝いておる教会がある。沢山の人がお参りをする教会がある。所が先生が亡くなられると御ひれいががたっと落ちてしまう。おかげは頂きたい。言うなら今日の御理解じゃないけれども、大きなおかげは頂きたい。
けれどもそれがあっという間に、小さくなったり落ちたりしたんでは、そこん所に大変心を使うておられると、私はそういう言うならば御ひれいを頂いて沢山の信者が助かるようになって、それをそのまま所ではない。言うならば日勝り、月勝り、年勝り、代勝りにおかげを頂いていく手立てはないものか。ね。そういう言わば所に眼目を置いてのまあ合楽行になったらしいんです。ね。
合楽の言うならば御ひれいの状態を見せるとか見るとか言った様な事でなくて、先生もしあなたが亡くなられたら、あなたがもし死なれたら後はどうなりますかという質問を、まああらゆる角度から聞かれました。けれども(笑)さあこれは私が死んでみなきゃあわからん。今日は私が死ぬお話ばっかりですねと言うて、まあお話をすすめた事でしたけれども。例えば大阪と言う所はもうそれこそ、所謂マンモス教会がいくらもある所ですね。例えば先日からテープを送って頂きましたが。
泉尾の先生の信心なんかというものは、それこそいわゆる世界中を駆け回って、世界総助けと言う様な運動を、他の宗教の方達と一緒になって、まあそういう運動に参加しておられます。だからもう席の温まるりようがないように、もうあちらこちら飛び回って御用なさっておられる。しかも先生の信心の、どうしてあれだけの人が沢山集まって、沢山の人が助かっていっておるかと分からない。
どこにそういうおかげの元があるか分からない。恐らく今日の御理解で言うならば、大きな信心をなさっておられるから、大きなおかげが受けられるんだと。しかも、世界総助けと言った様な、大きな願いを立てておられるから、ああしたおかげが受けらておるんだと。私はしかしそうではないと思うです。ね。世界中を又に掛けて、言わば人助けのために、是をなさっておられる。ね。世界中の氏子の事を祈り願っておられる。
その願いが成就する事のためならば、もういつも命をはっておられるという感じ。言うならば命がけの信心と。そこにあれだけのほどしの人が助かる。毎月のご本部参拝が何千名と言われる、なら阿倍野においても矢張り同じ。先生の信心に触れて先生の信心がこうだと、とても私共では分かるはずもないですけれども、とにかくお会いしてその実感というものがもう有難いの権化のような方だと言う事。
どこを切っても有難いと結局はあの有難いという先生の心に、あれだけの人が助かって潤うておるんだと。ね。だから命を賭けての布教というか、もうそれこそ有難しの権化のような先生がそこにおられて、あれだけの人が助かっておるんだと、まあみると致しますとです。これはそんなら後に続くか残るかと言う事は、大変な疑問である。ね。過去において沢山な人が助かった教会で、今は閑古鳥が鳴くように寂しい教会もいくらもあるのです。だから初代は命がけでああいう信心をなさったから。
ああいう大きな世界中を飛び回るようにして、世界中の言うなら総助けと言う様なスローガンの元に、命賭けてはまっておられる。ね。だからあのごひれいだと。けれども果たしてそれが、二代にそういう信心ができるだろうかと、二代の先生もまた命がけで、んならそういう信心を継承されれば、問題はないだろうけれども、そういう訳にはいかん。親の信心を知っておるだけで、親先生はああいうご修行、信心をなさっておったというだけではいかん。阿倍野においてしかりである。ね。
それこそあの有難い権化のような先生の所で、その有り難いの一念がああいうおかげの潤いになっておるが、言うなら二代がそんなに有難くなれるとは、それは一年一年有難うなっていく稽古はなさいましょうけれども、もし亡くなられたらその有難いというものはその場で消えるのだと。命がけでとはまっておっても、それは先生一代のものだと。はあこういう信心ではね、後が続かんのではなかろうかと言う事です。
先生方の心配もそれなんです。ね。又は非常に霊徳がすぐれて、もうそれこそ千里眼のような先生が座っておられる所では、沢山の人が集まってくる。ね。言うならばおかげを求めて甘いところに蟻が集まって来るように集まって来る。そしてまた助かる。また御霊さん関係を拝まれる先生もおられる。あなたの所では何代前にこう言う様な御霊が助かっとらんから、と言う様な事がまあ言うならばそこのご信心と言う様な所もあるのです。だからあれが良くて、これが悪いと言う事ではない。
その全てがあっても良いのだけれども、果たしてそれがその二代の先生も、なら御霊を拝む事が出来るか、二代の先生も手をあてたばっかで病人が治るような、言うならお徳を受けられるかと。言うならその先生が亡くなったら、もう手を当ててもらわれんからと言うて参って来んでしょうし、なら御霊さんのことのはあ病気をした。そらもう(何々?)のさわりがあったと。と言うな事が分からん先生になったら、もう後はそれで、寂れてしまうんだと。合楽なんかでもまあ人が助かる助かるとこう言われておるが。
果たして合楽の信心はどうだろうかというので、やっぱそれと同じ。私はそこの所を話さして頂いておるうちに、はっと気づかせて頂いたんです。ははぁそりゃあ泉尾も素晴らしい、阿倍野はなお素晴らしい。けれどもね合楽の場合はちょっと違うと言う事です。ね。私がとても命がけにもなれないし、というて有り難いの権化のような私でもないし、有り難かったり有り難くなくなったりする位の私なんだけれども、ね、私が一心と定めておる所は、もう天地の心を心としたいという一念なんです。
いわゆる天地日月の心と言う事になるのです。だから私はもう絶対とか、と言う様な言葉を沢山使うけれども、昨日もまあ絶対という言葉を沢山使いながらお話を聞いて頂いたんですけれども、ね、そりゃあ私も死んでみなきゃ分からん、実際合楽がどげなんなるか。けれども今の合楽で言われておるところの、この合楽理念をマスターして、そして(まねがとに?)でも私の後を継いでいくならば、私は言うならば日勝り、月勝り、年勝りではなくて、代勝りのおかげが私は頂ける事を確信しておる。
教祖もそう仰っておられる。ね。こういう信心をさせて頂けば代勝りのおかげが受けられるという信心を教えまた残しておられる。だから私はどうでもその教祖様の御教えというものが本当か本当でないかの実証者でありたいと私は思うた。ね。そこには私だけではない、二代三代に言わば愈々おかげが頂いていける所の、是はもう絶対のそれこそ絶対のですね(笑)生き方はもう合楽理念をマスターする事。しかもそれが楽しゅう有り難く、やろうと思えば誰でも頂ける信心が、合楽理念の中には解き明かしてある。
信心が楽しゅうなってくる、信心が有難うなってくる。しかも愈々天地日月の心といやあ、天地の心そのまま。天地の心を心とするという生き方。だからこれは私が亡くなっても、この信心この信心を受け継ぐ限り。有り難さの程度は違うでしょう、ね。けれども私は、ね、そういう大きな信心、天地を相手にした所の信心。天地を相手というとまあなんですけれどもね。天地の心を心としていくという信心。
けれども先生あなたはそう言われるけれども、子供さん達の場合言うなら、もうそのままで育たれると思うですか。私はまあ思うとこう言う。まあそれで一例二例を話して聞いて頂いた。栄四郎が先日、研修の時に発表しておったように、ね、友達が金光様の先生すりゃあどうしてそんなに早う起きしなきゃならんのかというて笑うけれども、そこを泣く泣くでも辛抱さして頂いておったら、こういう有り難い事になってきた。言うならば「久富博道」のおかげが受けられるという。
広い「久富」と言う事は徳の世界ですね。いつまでいついつまでも富むという世界。「博道」というのは博道(はくどう)である。そういう道が開けるためには、栄四郎こういう信心をしなければいけないよと、神様が直接教えておって下さる。だからこれは私が教導するとか、私が教えるというのなら、分からんけれども、神様がこれほど肩を入れてござるから、ここの言わば子供達の上に、ね。
例えばんなら私から見て、身にあまると言う事も一杯あるけれども、これがひとつ続けられておる、この信心ができておる限り、神様が必ず神様がお引き回しを下さる、教導して下さると言う事を私は信じる。例えば昨日若先生が、もうそれこそあの破傷風でもう身動きもできんような、あん時丁度青年教師の方でみて、その大変医学に詳しい先生が来ておった。じゃあその若先生の所にお見舞いに行って、あら死ぬばいち。
とてもあれだけの事が医者にもかけんな、もう違わん死ぬるばいと言うて話したというほどしの事を、その後で聞かせて頂いたが、それでも矢張りなら朝の御祈念には、はいはいをしながらでも出て来た。他の青年教師の先生方も、まあそれがある意味で、まあ感動した。だから若先生にそういう一つの根性がある限り、私は神様が必ずお育て下さると確信する。それが一つある限り。
だから合楽は私の代よりも、二代三代におかげが頂いていくと私は確信している、又それを実証させて頂かなければならない。ね。親の例えば命がけでもなからなければ、有難い権化でもないけれども、ね、目指す所が天地の心を心とするという、言うならばあらゆる角度から、んなら合楽理念が説かれておるわけですけれども、その芯になる所の天地日月の心と、言うならば和賀心和らぎ賀ぶ心を目指さしてもろうて、それに取り組ませて頂く手立てというものが説いてある。
どう言う様な手立てを持ってすると、和らぎ賀ぶ心になれるのか。それにはまず天地の心を心とする信心。私は今日はここの所を頂いて大きな信心といやあ、まずは天地の心を心とする信心に焦点を置いて、信心を進めて果たして、なら自分の心を見てみると、それこそ、四神様じゃないですけれども、竹の筒に水が溜まったような自分である事に気づかせてもろうて、これではぼうふらぐらいなものしかわかんのだと。大海のような信心しなさらん。ためにはまず広く深くならなければいけない。
広く深くなる手立てが、天地日月の心だと。その天地日月の心をそれをもう本当にやろうと思えば子供でも、本気でやろうお道の教師でも志すほどの人ならばね、もう絶対やってのけれれるほどしの、言わば見やすい説き方がしてあるね。例えばそれは東京行きと鹿児島行きの例をいつも申しますけれどもね、この道を行きゃあ間違いなく東京行きなんだと、いう姿勢をはっきりそこに示してある。その一線上に出て一歩ずつでも近づけば、東京に一歩近づくという私は姿勢。天地の心を心とするという生き方。ね。
私はこういう信心が一番大きいと思う(笑い)。はあもう大きなことばっかり言うちから、というごとあるけれども、私の場合にいつもその手応えを感じておる。ね。それを言う所の天地のリズムである。私の心が狂うてくると天地のリズムが乱れてくる。祈る事が出来ない。ね。ここのご信者さんの皆さんも、その辺の所の態度が段々出来てきよる。ね。天地の心を心とすると言う様な生き方を身につけていこうとする所からです、天地が寄り添うようにして、私共に調子を合わせて下さるのである。
その調子にのっていく生き方をね、身につけておく。そこまではつけておかなければならないという。ね。それをんなら皆が、はあ素晴らしいタイミングの中に今日一日のお繰り合わせを頂いたと、それなんです。ね。ですから足したら引いてみる、引いたら足してみると言う様な生き方をです、なら合楽ではそこん所のよい答えが出て来なければ前には進まれないという訳なんです。ね。
ですから間違いなく進んで行ける、そういう道を体得して行く事に一生懸命なんですから、私は合楽の場合は、私が死んでも二代三代に、それこそ教祖様のお言葉どおりに、それこそ「目出度めでたの若松様よ、枝も栄える葉も茂るというではないか。金光大神は家繁盛、子孫繁盛の道を教えるのじゃ」という、その道というものを説いてある。それを様々に説く人もあるけれども、合楽の場合は天地日月の心と言う所に焦点を置いて、その道が説かれていく。次に楽しい実に有り難い、ね。
信心がこの世だけのものではない、この世あの世をとおしてのものだというほどしに、言うならば絶対のものであり、大切のものであると言う事が分かったなら、そうした信心の稽古を進めていかなければおられないように、合楽理念を説いてあるのです。ね。先日からここに、学院から修行に見えておった3人の先生方が手紙よこしておる中にも、やっぱそう言う事を書いてある。ね。
合楽で15日であったけれども、ね、合楽の信心を頂かせてもろうて、これは私のような者でも、お道の教師のおとりたてを頂いて、人が助かるような自他ともに助かるような道が開けるぞと。不安でたまらなかったのが、その不安がなくなっていわゆる楽しゅう、言わばお道の教師になる稽古ができるという意味の事を言ってきておった。そりゃ絶対の間違いのない、言わば信心の一線上に言わば出たから、それが言えるのである。楽しゅうなってきたわけです。ね。
今日は私色々に大きな信心とはもう、言うなら本当は馬鹿と阿呆になる信心。もうこれも大変な大きな信心です。けれどもそれではねんなら二代が馬鹿と阿呆になりきらなかったら、また落とさなきゃならない。ね。けれども合楽理念を元にして、大きな信心を目指す、天地を目指すという信心ならば、これはできんなりに、そこを目指せばいいのだから、ね。はあとても天地の心を心とするなんて。
と思うのだけれども実はそうではない。もう手近な所から天地の心を心としていく手立てが。それこそ一歩一歩進んでいける道順のようなものが、私は合楽理念だと思うんです。ね。そういう意味合いで愈々合楽理念をマスターして、願う所焦点は天地の心を心とするというほどしの信心。天下国家の事を祈るとか願うとか、それこそ泉尾の先生じゃないけれどもね、世界総助けと言う様で世界中を駆け回っておられる
。けれども私も矢張り、世界の世界清め運動と言う事を先日から頂いた事があるけども、もう世界を清めていく運動と言う事は、自分自身の心からまず、清める事だと言う事。そしてそれを隣に広めていかなかければ、自分自身の心が清まらずして、世界中を清めて回るというわけにはいかんのだと。ね。言うならその清まると言う事がです、天地日月の心にならして貰う事が肝要。言うなら天の心とは限りなく。
美しゅうなる事に精進する事であり地の心というのは、それこそ黙って大地のように受けて受けて受けぬく心、そういう精進をすると言う事。ね。日月の心それこそ確実な実意なね、些細な事でも疎かにしない。やろうと思えば子供でもやれる様な事を。疎かにしておった事に気づかせてもろうて、そこん所をいわゆる心行の伴うた言わば実意をもって、子供でも成せる様な事をなしていくという精進。ね。
そういう精進を怠らない限り、私は合楽は愈々、いわゆる合楽教会大発展の御神願が愈々成就していくと、私は確信します。皆さんに置いても矢張り同じ事。皆さん一代ではできん。日勝り、月勝り、代勝りのおかげを頂くためには、んならお父さんがこういう信心をしたけん、こういう財産が出来たんだぞと。例えば言うて聞かしても、お父さんだけの働きができないかもしれません。ね。
けれどもね、お父さんの生き方はどこまでも。天地が相手だ天地日月の心になる事が肝要だ、ここではこの様に楽しゅう、この様に歩いて行けるんだと言う事をです、なら子供にも伝えておくと言う事が、大事だと言う事。そして実証をね示しながら、おかげを示しながらですから。いくら例えば頑固な子供でも着いて来なければおられないと私は思うです。まず自分自身が様々な信心の、あの手この手がありましょう、おかげを頂く生き方には。けれどもそれが後に残せないような。
御神徳は残ると仰せられるけれども、御神徳が残るというのは、それはね丁度あの地に埋めて置いてあるようなもんです。ね。だからそれを掘り出さない限りは、その徳にも触れる事は出来ません。今日は大きな信心と最後にある一心と定めいと、もう天地日月の心になる事肝要。もうこれ以外にはないんだと、そこに焦点を置いて、一心と定めた時に私はあなたの信心は、大きな信心だと言う事になるのじゃないかと思いますね。
どうぞ。